逃げを打ちたい

死にたいと思ったことは数度あります.衝撃の告白に聞こえますけど,そういう思いがよぎるぐらいのやり場のない出来事っているのは,誰でも普通にあるものですし,アブノーマルなことでもないと思うのですが.ただ死にたいと「思った」だけで,実際に死のうとか,実行に移したことは一切ないです.

実行に移せなかった原因というのは2つあるでしょう.死ぬのが怖いことと,もうちょっと生きてやりたいことがあったこと.後者のやりたいことというのが数学です.死ぬのが怖いというのは,まあ誰だって同じことだと思うし,そうであってほしい.

昨今の報道を見て,こうしたことを思い出しました.

死という選択をすることはとても強い意志が必要ですから,そういう意志を持つことが可能だということにも衝撃を受けたんですが,それより感じたのは,「今を必死に堪えてでも得たい将来」というものが無くなってしまっているんだなあということでした.いつからそんなに将来に希望を見いだせない子供が増えたことか.

ならいじめる側はどうかと考えてみると,彼らも将来に希望が見いだせないんでしょう.色々なストレスのはけ口が1人に集中してしまう.いじめる側だって限界なのかもしれません.どうやら教育だけの問題ではなく,社会全体の風潮がいじめを助長しているようにも見えます.

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いじめによる自殺を防ぎたいなら,どこかに逃げ道を作らせてあげることが先決じゃないかと思うのです.「逃げていては問題は解決しない」という説教をする人がいますけど,正直な話,問題を解決しなければならないのは親や先生といった大人です.それぐらい重いことを子供達の問題解決能力に任せるということなど,子供にとって酷としか言いようがありません.だとしたら,いじめられている側の子ができるせめてもの抵抗は,うまいこと「名誉ある撤退」をすることなんじゃないでしょうか.うまく撤退して,再チャレンジの機会を窺うほうが,少なくとも死ぬよりはましです.バリバリに趣味の道にすすむでもいいし,将来なりたいものがあるならそれに向かって逃げてもいい.転校とかも選択肢としてありでしょう.もちろん,社会的に許されないような逃げ方はなしですが,「〜への逃走」は許されるべきだと思います.

本来は,大人がリーダーシップを発揮して,いじめる側を戒め,いじめられる側に安心を与えることが最も重要なことなのですが,残念なことに現在の日本はそうなっていません.さらに将来が暗いとなると,絶望的です.だからこそ,弱い立場に立たされた人達は,勝とうとするのではなく,負け方を考えた方がいい気がするのです.そうして,大人が「勝たせて」くれるのを待つしかありません.*1

*1:こういうと,自立を妨げるとかという批判を受けるかもしれませんが,上でも言ったとおり,いじめっていうのは子供に委ねるには重すぎる出来事です.もし自立を促そうというのなら,もうちょっと日常的な,易しいところから始められるはずです.そりゃ,大人に頼らずにいじめを解決できたなら大いなる成長が望めますが,それをすべての子供に期待してはいけないと思います.