つられてみた

「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ! - ココロ社

ブックマークを見るに、賛否両論、ものすごい量のブックマークコメントがついています。さすが、面白い話題を提供してくれるブログです。

さて、私はというと、ココロ社氏の主張は少し極端過ぎるというのが本音です。極端というか、舌足らずだなという印象を受けます。自分の行動を基準とするなら、哲学とかは大部分が「無駄な思考」に分類されてしまいます。日常生活を送る上で、それでも差し支えないのならそれで構わないのですが、個人的には「それはあんまりだろう」という気がしてなりません。

ただ、ココロ社氏の出している例は、面白いものばかりで、これだけで色々と思考のトレーニングになることばかりでした。ということで、ココロ社氏の例を私なりに考え直して、氏の言いたいことを再構成してみることにします。これは自己満足であることには変わりないのですが、少なくともブログを書くこと自体自己満足ですし。ということで、長文になります。もし読みたいなら、先のリンク先を見ておくといいでしょう。(2008/04/04 19:20 追記:少し修正しました)

血液型プロブレムと余計な根拠

まず血液型プロブレムを検討してみます。Aさんは、「○○さんは悪い意味でマイペースなので嫌いだ」と言っています。そして、その根拠は、B型だと言っています。でも、はたしてAさんは「○○さんがB型」だから、「○○さんは悪い意味でマイペースだ」ということを導いているのかは、疑問といわざるをえません。もしそうだとしたら、Aさんは人を血液型だけで判断していることになります。ところが、Aさんと○○さんはどうやら「嫌い」という評価がAさんの口から出るほどのつきあいはあるでしょう。そういう人を血液型だけで判断するとは到底思えません。おそらく、○○さんの「悪い意味でマイペース」ぶりには、他の根拠(たとえば、そういうエピソードがあったといったもの)があるのでしょう。

ところが、Aさんは「○○さんはB型だから」という「余計な情報」を入れてしまっています。だから相手は、「Aさんは『B型=悪い意味でマイペース』という構図を信じているのだな」と推測してしまう。だって、無関係で余計な情報は相手は言っていないものとして聞き手は解釈しますから。実際は○○さんがB型である以上に、もっと「悪い意味でマイペース」を結論づける根拠がある(はず)なのに、解釈違いが起きてしまったわけです。

ということで、血液型プロブレムは、本当か嘘かというより、よりよい根拠があるならそちらを採用すべきだということを教えてくれているようです。

ちなみに、ここでのココロ社さんの「じゃあ△△さんはどう?あの人もB型だったと思うけど」は、ちょいと意地悪だと思います。ここは、思いやりを働かせて、Aさんが血液型云々の話をメインでしたいわけではないということを読み取ってあげてもいいかとも思います。ただ、そこまでのことをこの会話で求めるべきなのかはいささか疑問ですが。

「水伝」問題はもっと難しい

次に「水伝」の問題ですが、これそもそも議論がおかしい。どうしたら「水」に対する言説と「人間」が結び付くのかわかりません。そういう意味でも、これはたいして価値のない「考えなくていい」ものでしょうが、あえてここはそのことには目をつむっておきます。問題は、「人にやさしくすべき」ということの根拠に「水伝」のあの話を持ち出すべきかどうかということです。1でいったことからすると、たぶんその必要性はまったくない。だって、「人にやさしくしましょう」ということを言うなら、いくらでも納得される理由付けができるでしょう。これも、根拠の優劣の水準という話で決着がつきます。

ただ、「水伝」問題が難しいのは、はたしてこの主張をした側が、「水伝」話にどれだけの証拠としての価値を見出しているのかがわからないことです。実際「水伝」のいうことを信用している人にとっては、先ほどとは逆に、「水伝」話のほうが根拠として優れているという判断をする可能性があります。むしろ、我々が、「水伝」話は根拠として劣っていると判断できるのは、我々がその話が科学的に根拠も何もないということを知っているからです。このことが、話をややこしくしています。

ここに関しては色々な人が議論をしているので首を突っ込みませんが、一ついえるのは、「情報に接するときにはかならず(その真偽を)検討せねばならない」ということです。むしろ情報に接するときこそ思考が必要だといえるでしょう。

格差社会問題はよく見ると・・・

次に格差社会問題について。実はこの議論、「何を議論したかったのか不明」になっている。「格差社会は誰の責任か」ということに対して、「自己責任」か「社会の責任」と結論するまではよしとしましょう。ところがその先の、「努力して給料のいい仕事を探す」というのは、「(今は低賃金 or 無職の)自分は、この先どうすればいいのか」という話です。つまり、こういう考え方をしたということは、もともと「格差社会は誰の責任か」云々ではなくて、目下の自分の方向性のほうがずっと大きい問題だったわけです。前者の問いは、ややもすると無駄な問いというか、「そもそも論」になってしまっています。ということで、不必要な問いを建てるべきではないということをここから汲み取っておきましょう。

スプーン曲げの件も、最初から興味が無かったということを確認する行為といえるでしょう。超能力があろうが無かろうが別に関係ないという事実を確認することで、不必要な問いをしないというココロ社氏の言い分は、こうした例ではスッキリと当てはまります。仮に、「超能力はない」ということを検証しなければ気が済まない人がいるなら、話は逆になるでしょうね。

「考えない勇気」って何なの?

こうして見てくると、

  • 優れた根拠があるならそちらを採用すべき
  • 下手に問題を増やすな。問題は一つにしぼれ。

という教訓めいたものを見出すことができそうです。おそらくココロ社氏の「考えない勇気」というのは、2のことを言っているのだと私は思います。ただ、行動するために思考するというのは言い過ぎです。むしろ、状況や文脈を見て、何を考え、何を考えないのか判断すべきで、要は「頭を冷やせ!」ということですね。

おそらく、ココロ社氏が想定した人というのは、「趣味であるはずの思考で悶々として生きるのがいやになったり、言い争いをして、人間関係を悪くしたリ・・・」「色々と思索したあげくに、何も得られなかった」という人でしょう。そういう人は、たしかに頭を冷やして見た方がいいかもしれません。「自分の立てた問いは適切なのかどうか」と。それぐらいのことを考えることは無駄では無いはずです。

では、1はどうなのか?1の場合、こちらが考えないというより、こちらを考えさせるようなややこしい根拠を出してくれるなということだとも言えます。つまり、問題を絞るべしという2の基準に照らした場合に、情報を発する側が守らないといけないルールだということだと、私は解釈します。

というわけで、グダグダ長いこと書きましたが、結局、考えることと考えないこととの境界を画定するためにも、思考が必要なんだということでした。