先見日記から

最近共感したエントリーを.

自分と言葉の距離
私語が関係を殺す

上が前編,下が後編という感じでしょうか.駒沢さんの文章って,Webコラムにしては結構難解で,咀嚼するのにちょっと時間がかかるので,今回のこの記事も,自分の中で理解するのに時間が掛かってしまいました.以下,私なりの咀嚼の仕方です.長いので,foldしてあります.面倒くさいなら,読む必要などありません.ただ読んで色々言ってくださると嬉しい限りです.


昔,小論文の添削のアルバイトをやっていました.高校生の書いた小論文をひたすらに添削するのです.その最中に思ったことが,「みんな自分のことしか言わない」ということでした.自分の意見があるのはいいのですが,その根拠がない.「〜は当然だ」とか「〜は当たり前だ」とか,断定的な言い回しが目立ちます.彼らがあげる具体例も,自分の体験をもとにしているものが多いのですが,感想で終わってしまっているものが多かったのです.つまり,自分に密着したことだけを書いている.書いたテクストが筆者の意志から自由になり,読み手の多様な解釈に委ねられるんだという意識がないようです.少なくとも私にはそう思えました.

現在,これと同じようなことが色々な場で起こっているような気がします.まさに上の後半の記事で駒沢さんがいう,「相手との距離をはかるという前提が,大きく失われている」ということなのでしょう.これは邪推なのですが,恐らくこうしたことが顕著になり出したのは,「毒舌タレント」の登場と同時期なのではないかと私は思います.本音をズバッという人たちは,「本音と建前」の区別,もしくはそれによる多大な人間関係のストレスに憔悴しきっていたお茶の間を魅了していきました.でもそれは同時に,1人もしくは数人のタレントの主観が,全国的に押しつけられる瞬間でもあります.彼ら,彼女らが「この人は嫌い」と言えば,やり玉に挙げられた人は悪者にされます.むしろ,「普段思っていたことをよく言ってくれた」と彼らは賞賛されるんでしょう.結局,彼らの物言いは,受け手の「共感」を前提にして成り立っている.でも共感っていうのは本来コミュニケーションの結果として得られるものであるはずです.

Webの進展,殊に巨大掲示板やblogの興隆によって,市井の人々が自分の言葉を表明できるチャンスが増えましたが,ふたを開けてみると,上に述べたようなことを引きずってしまっているようです.批判と非難が区別できない,自分の考えと同じことを他人も思っている,そういうエントリを多く見受けます.駒沢さんの危惧する現在の日本語の限界は,割と私たちの近辺に迫っています.恐らく先週の週刊文春の中吊りにあった,「豊乳なのに清純派 長澤まさみは女の敵」という見出しも,本人にべったり密着しているものと言っていいでしょう.第一,僻みじゃねえか.

もちろん,かくいう私もこのブログにそういうエントリがないというわけではないです.前に書いた石原真理子についてのエントリなんて,今考えると結構酷い物言いです.「男と寝た自慢」って,悪口やがな.しかし一方で,あの暴露本に異を唱える理由もちゃんとあって,それが今述べてきたようなことなんですね.実名を出して暴露するという行為に,暴露される他者は存在しないし,暴露された瞬間に,暴露した側と暴露された側の間に不正な主従関係が発生してしまう.果たしてそれをして,「芸能本の傑作」と言うのはどうなのでしょうか.

駒沢さんの文章を読んでから,暇を見て色々と考えている中で,駒沢さんのいう現在の日本語は,「嘔吐的」という言葉で形容されるように思えてきました.未消化のままの吐露,周辺を気にしない嘔吐.この言葉,結構いい表現だと自分では思うのですが,どうでしょうか?